名 称 |
東日本大震災復興支援 二十五里 桜まつり(にっこり さくらまつり)
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期 間 |
2014年4月5日(土)・4月6日(日)・4月12日(土)の3日間
※5日(土)・6日(日)は、みつわ台桜まつりが開催されておりますため、みつわ台交番から来た小学校まで歩行者天国になっていて通り抜け出来ませんのでその先の道をご利用ください。
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時 間 |
AM10:00~PM5:00
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料 金: |
<場所使用料>
一区画 1,500円(2.7×3.6・シート/座布団/机がご使用出来ます。)
<BBQ使用料>
一団体 1,000円(共同になりますがBBQコンロの使用・炭・トング・軍手・箸・紙皿など含まれております。)
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場 所 |
千葉県千葉市若葉区源町二十五里(つうへいじ)839 二十五里南貝塚・芝生広場(旧・殿山ガーデン)
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概 要 |
二十五里南貝塚・芝生広場のサクラテーブルで、ゆったりたっぷり手ぶらでお花見を楽しめます。
また、bayfm78.0にて毎週土曜日朝6:30から放送中・東日本大震災復興支援番組「KOUSAKUのHEARTLUCK」から誕生した被災地支援のキッチントラック・HEARTLUCK号にて、石巻焼きそばやワカメフランクなどグルメの販売。バーベキュー・生ビール・焼酎・ソフトドリンクなどもご用意してります。
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目 的 |
千葉県『桜の名所20選』にも選ばれた三万坪の庭園の中にある1000坪の二十五里南貝塚・芝生広場や周辺に咲く満開の桜を愛でながら歴史認識を深め、二十五里南貝塚や建造物などこの土地の歴史文化や自然環境を守っていくこと。また、まるごみPAPANの掲げる環境保全活動「日本まるごとゴミ拾い」や災害復興支援活動へ売上の一部を還元することを目的とします。
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主 催 |
二十五里 桜まつり実行委員会(にっこりさくらまつり)
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協 力 |
まるごみJAPAN/株式会社SnapDragon/株式会社シェフミートチグサ/ちば産直/にぎわいクリエイト株式会社
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アクセス |
千葉都市モノレール・みつわ台駅下車 徒歩10分
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HP |
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m a i l |
<土地所有者 中村吉胤さん 挨拶>
この歴史ある場所と、緑を守っていくためには一人でも多くの方々にこの場所を見ていただき、知っていただくことが大切なことだと思っております。
これまでこの広場へは歴史的なことも踏まえて立ち入り禁止とさせていただいておりましたが、桜がキレイに咲くこの場所に皆様の笑顔が溢れることを想像しワクワクしております。これをきっかけに、やがていつでも皆様が集える場所になっていけば幸いです。
まずは今年初めて開放する広場でお花見を楽しんで下さい。皆様のお越しお待ちしております。
<にっこり桜まつり 実行委員長 挨拶>
源頼朝公の右腕と信頼されていた千葉常胤公の家臣の館跡地であり、さらに縄文時代からの加曾利貝塚に継ぐ遺跡になっているこの場所。そういう描かれない歴史上の原石を、みんなで磨いて後世に残したいと言う願いを込めまして、この「二十五里 桜まつり」を開催し守っていきます。初めは小規模なカタチでのスタートかもしれませんが、出来ることから始めて、そこから人々に伝え、一歩づつ大きなうねりに変えて行ければと思います。
<補足>
千葉(ちば)氏は、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる下総の豪族で、守護大名・戦国大名となった一族であります。1180年(治承4年)に源頼朝が平氏に対して挙兵し石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ渡ると、常胤は頼朝から加勢を求められこれに応じました。常胤は平家との戦いや奥州藤原氏との戦いで活躍し、更に上総氏の惣領上総広常が頼朝に嫌われて粛清されると、千葉氏の権力は上総国まで及んだ。鎌倉時代には下総の守護とされました。
<DJ KOUSAKU まるごみJAPAN 代表挨拶>
毎週土曜日・朝6時30分からベイエフエムにて東日本大震災復興支援番組「KOUSAKUのHEARTLUCK」を担当していますDJ KOUSAKUです。まるごみJAPANというNPO(現U-PROJECT)の代表をしています。2008年にゴミ拾いを始めて2010年には千葉県で7万人の方が一緒に手を伸ばしてくれるようになりましたが、2011年3月11日の東日本大震災から支援活動をスタート、現在も番組を通じて支援のお手伝いさせていただいております。「日本まるごとゴミ拾い」を掲げ、現在は千葉県だけに止まらず日本各地でこの活動をさせていただいております。ゴミ拾いで繋がり、震災など災害が発生した時は助け合う、そんな活動です。始まりは千葉県浦安市からで、千葉は何と言っても足元です。この二十五里南貝塚を見に行った時、「この場所をこのままにしておいてはいけない」と思い、今回僕のやれる範囲でお手伝いさせて頂きます。皆さんは是非、この場所へ遊びに来ていただくだけで構いませんので、どんどん遊びに来てください。楽しむことが様々な支援に繋がります。
<二十五里の読み方>
「廿五里」という古くからの地名は、そのまま読めば「にじゅうごり」だが,全国でも有数の超難読地名の一つで,「ついへいじ」と読みます。完全な当て字ですが、その由来は江戸中期で鎌倉の故実学者伊勢貞丈(1717〜84)の随筆によると,「同所にある東泉寺に鎌倉幕府の焼香使が毎月訪れ,参拝をした。当時の旅程で鎌倉から二十五里あったところから,それまでの地名「露乾地(つゆひじ)」を「二十五里」に変え,読み方だけは昔のままとした。このことが代々,地区に言い伝えられた」とあります。
<二十五里南貝塚(つうへいじみなみかいづか)とは>
二十五里南貝塚は、葭川谷から分岐した二十五里支谷の最奥部、標高約28〜29mの台地上平担部に所在し、貝層は直径約100mの馬蹄形で、ハマグリ・キサゴなどを主体に縄文時代中期から後期にわたり形成されています。
昭和47年(1972)、小発掘調査が行われ、縄文時代中期の竪穴住居跡とその中に捨てられた貝の堆積中から、土器を被った屈葬人骨が検出されています。竪穴住居跡は、5.6m×4.7mの隅丸胴張長方形で、4本の柱穴の内側が一段低く、炉が検出されていません。屈葬人骨は、深鉢形土器を頭から被った甕被り(かめかぶり)葬で成人女性でした。遺物は、土器・打製石斧・磨製石斧・軽石・石棒片・石鏃やアカニシの貝輪などがあります。その他、貝層中よりイノシシ・タヌキ・シカなどの獣の骨とクロダイ・スズキ・エイ・サメなどの魚の骨が検出されています。
この二十五里南貝塚の所在する台地は、中背に館跡として造成され、ここから北へ約100mの所に縄文時代中期から後期にわたり馬蹄形に形成された二十五里北貝塚が所在します。